小樽運河保存運動関連年表

※本年表は末尾に記載した資料を照合して作成しているが、年月日等の検証はしていないのでご留意願いたい。

2024.2.27改版

元号 月日 出来事 資料番号
1959年 昭和34年 8月12日 小樽市港湾審議会、国の港湾審議会に対して「港湾10ヶ年計画(昭和33~42年)」を承認するよう求める。計画中には小樽運河の埋立とその跡地の鉄道敷設の計画が含まれていた。
1964年 昭和39年 12月5日 第47回衆議院運輸委員会において壽原正一議員が札樽バイパス、札樽新港等について質問する。
1966年 昭和41年 3月8日 市議会第1回定例会において〈道道臨港線〉に関する質問があり、安逹与五郎市長は幅員、コース等はまだはっきりわかっていません」と回答。
1966年 昭和41年 8月25日 〈道道臨港線〉都市計画決定(建設省告示2912号)。
1966年 昭和41年 9月20日 小樽市、『広報おたる』10月号で〈道道臨港線〉を特集する。 X_1966_001_01.jpg
1966年 昭和41年 10月4日 〈道道臨港線〉第1区930mが都市計画紙業認可受ける。
1967年 昭和42年 3月 〈道道臨港線〉に関連し「交通計画」と「駅前広場計画」について『広報おたる』誌上で説明する。
1967年 昭和42年 4月1日 小樽市長選挙で、稲垣祐氏が市長になる(1970年まで、2期8年)。
1967年 昭和42年 4月 〈道道臨港線〉工事着工開始。
1968年 昭和43年 4月 〈道道臨港線〉工事、勝納跨線橋の整備に着手する。
1969年 昭和44年 4月 臨港線工事関連業務を担当していた部署「都市改造事務局」が「臨港線事務局」に改組。
1970年 昭和45年 1月 日本建築学会明治建築小委員会、「神戸、長崎と並ぶ近代の3大景観地の一つ」として小樽運河と周辺石造倉庫群を評価する見解を公表する。
1973年 昭和46年 10月 〈道道臨港線〉第3区1、040m、第1区に編入する形で都市計画事業認可を受ける。
1972年 昭和47年 6月14日 『北海タイムス』、有幌地区の倉庫群約30棟が取り壊し直前であることを報じる。
1972年 昭和47年 8月18日 〈道道臨港線〉計画、一部幅員変更して都市計画決定。
1972年 昭和47年 10月17日 運河を埋め立てて緑地とする改訂港湾計画決定。
1973年 昭和48年 6月 文化庁が小樽運河と周辺石像倉庫群を予備調査実施する。
1973年 昭和48年 10月 藤森氏を中心に《小樽運河を守る会》の結成準備開始する。
1973年 昭和48年 12月4日 《小樽運河を守る会》(以下《守る会》)発起人会結成、第1回発起人会を開く(於海員会館)。この時点でのメンバー24名、会長に越崎宗一、事務局長に藤森茂男を選出した。
1973年 昭和48年 12月7日 《守る会》、小樽市、小樽市議会に対し陳情書提出(陳情第161号)、趣旨説明を行う。
1974年 昭和49年 2月9日 小樽倉庫協会、第1回定例市議会に〈道道臨港線〉の早期完成を陳情提出する。(陳情第165号)
1974年 昭和49年 2月21日~26日 《守る会》、市内の今井デパートで「運河ポスター展」(21~26日)「大運河展」(23~26日)を開催
1974年 昭和49年 3月9日 小樽商工会議所、第1回定例市議会に〈道道臨港線〉の早期完成を陳情提出する。(陳情第170号)
1974年 昭和49年 5月17日 《守る会》事務局長の藤森茂男、町並み保存の先進各地を歴訪する旅に出発。倉敷や妻籠など12個所を訪問して現地の運動団体と交流し、文化庁と建設省で陳情も行う。約2週間後に帰樽
1974年 昭和49年 7月17日 《道道臨港線早期完成促進期成会》、〈道道臨港線〉の早期完成を陳情提出する。(陳情第203号)
1974年 昭和49年 9月17日 色内港町会、小樽市議会に〈道道臨港線〉の早期完成を陳情提出する。(陳情第209号)
1974年 昭和49年 12月 工営委員会の報告を受けて、小樽市議会は〈道道臨港線〉建設促進の陳情(陳情第165号、170号、203号、209号)を採択し、運河保存の陳情(陳情第161号)を不採択とする。《守る会》は「強行採択」であるとして反発する。
1975年 昭和50年 2月4日 《守る会》、道議会に対して陳情を行う。
1975年 昭和50年 3月11日 道議会、《守る会》の陳情を満場一致で採択となる。ただし、路線変更を求める部分のみ継続審議扱いとなる。
1975年 昭和50年 4月17日 統一地方選挙。小樽市長に志村和雄氏(自民党)と、《守る会》組織部長で北教組小樽支部長豊富智雄氏が立候補する。
1975年 昭和50年 4月27日 小樽市長に志村和雄氏(自民党)が初当選。運河保存を訴えた豊富氏との票差は8085票であった。
1975年 昭和50年 5月10日 道教育委員会、小樽市教育委員会に対し「運河と周辺地区の保存の可否を含めて調査を行う」よう文書で通達
1975年 昭和50年 6月24日 《小樽運河を守る会》、設立総会を開き正式に発足、会員数は会側の発表で1200人。(1973年12月4日発足の発起人会を発展させ、正式に守る会を発足した)
1975年 昭和50年 8月 小樽市と《守る会》代表者による、第1回懇談会開催。共同で総合調査を行う事で合意した。
1976年 昭和51年 6月 《守る会》藤森氏病気のため辞任、事務局長に米谷祐司氏、事務局次長に増田又喜氏を選出。
1976年 昭和51年 7月9日~7月14日 北大建築科OBらによる「運河再利用計画展」、小樽市内のデパートで開催される。 A_1976_003_01.jpg
1976年 昭和51年 9月14日 第7回目の懇親会が開催され、総合調査の内容等を検討する「総合調査準備委員会」(通称「三人委員会」)設置で合意。
1976年 昭和51年 10月19日 《守る会》会長の越崎宗一氏急逝。
1976年 昭和51年 11月25日 第1回「三人委員会」開催。
1976年 昭和51年 12月10日 予定していた第2回「三人委員会」流会となる。
1977年 昭和52年 1月19日 《守る会》、代表幹事に松本忠司氏と峯山冨美氏を選出する。
1977年 昭和52年 6月 「三人委員会」再開されるも平行線をたどる。
1977年 昭和52年 6月13日 《守る会》、約70名からなる総合調査団メンバー案を小樽市に提出。 A_1977_001_01.jpg
1977年 昭和52年 9月30日 小樽市は《守る会》と合意した、小樽運河周辺の合同調査を中止し、市単独で調査する事を通告する。関係部課による「運河関係総合調査委員会議」を発足させる。
1977年 昭和52年 10月3日 志村市長、《守る会》からの懇談会再開要請に応じず、市議会において「運河埋め立てを前提とした」小樽市独自の記録保存調査を行う旨の回答をする。
1977年 昭和52年 10月5日 《守る会》、小樽市の一方的な交渉打ち切りに抗議。
1977年 昭和52年 11月1日 商工会議所を中心にした、37の経済団体・町内会が、《小樽臨港線整備促進期成会》を結成する。
1977年 昭和52年 11月16日 《守る会》、小樽市独自の記録保存調査実施に対して、公開質問状を提出。
1977年 昭和52年 11月21日 《守る会》、『小樽運河総合調査報告書:中間報告』を公表。 A_1977_005.pdf
1977年 昭和52年 11月22日 《守る会》、道知事、住宅都市部へ陳情書提出。
1977年 昭和52年 11月27日 日本科学者会議北海道支部主催の「第8回北海道科学シンポジウムで、「小樽運河を守る運動」について報告。署名の協力を要請。
1977年 昭和52年 12月11日 小樽母親大会で「小樽運河を守る運動」の現状報告。
1977年 昭和52年 12月27日 小樽市への公開質問状の回答届く。従来の回答趣旨と変わらず。
1978年 昭和53年 1月19日 《守る会》の会費、従来の年1000円から500円に変更する。
1978年 昭和53年 2月15日 遠藤明久道工大教授が、機関誌『環境文化』に「小樽運河保存の問題」を発表。
1978年 昭和53年 3月9日 《守る会》代表幹事峯山冨美氏、市内の各高校を回り運河保存の意義を訴える。
1978年 昭和53年 3月13日 市民有志が運河保存に関して市議会議長へ陳情する。
1978年 昭和53年 5月12日 島本虎三衆議院議員、第84議会「公害対策並びに環境保全特別委員会」で小樽運河問題について質問する。
1978年 昭和53年 5月20日 「運河ニュース」No.8、ニューギンザ横にして街頭配布。
1978年 昭和53年 5月25日 《守る会》総会、会長に峯山冨美氏を選出する。記念講演「小樽運河の保存-私の見方」遠藤明久道工大教授。 A_1978_003_01.jpg
1978年 昭和53年 5月26日 《守る会》、小樽市に陳情。
1978年 昭和53年 5月29日 《守る会》、道庁文化部、住宅都市部に陳情。
1978年 昭和53年 5月30日 《守る会》副会長千葉七郎氏制作「運河はがき」売り出す。 A_1978_004_01.jpg
1978年 昭和53年 6月24日 《小樽運河問題を考える会》発足(札幌)(以下《考える会》)。保存と再生を求めるアピールを発表。
1978年 昭和53年 6月28日 《北海道の環境を考える会(HABITAT)》、第1回石造倉庫セミナーを開催、西山夘三、足達富士夫の両氏が講演。西山夘三京大名誉教授、小樽市長に運河保存と道路計画再検討を進言。
1978年 昭和53年 6月29日 《小樽運河問題を考える会》ニュース第1号発行。 B_1978_002_01.jpg
1978年 昭和53年 7月4日 稲北地区商店街の住民が、《道道臨港線既定ルートに絶対反対する住民の会》を結成。
1978年 昭和53年 7月8日~9日 運河周辺を会場にして、第1回ポートフェスティバル開催、約10万人の人出で賑わう。 C_1978_002_01.jpg
1978年 昭和53年 7月12日 小樽運河問題で社会党、共産党両議員が議会で小樽市教育委員会を追求。
1978年 昭和53年 7月13日 《守る会》「運河問題で話し合うよう小樽市教育委員長に要望。
1978年 昭和53年 7月13日 道議会で、道教育委員長が「小樽運河保存関して小樽市と協議したい」答弁。
1978年 昭和53年 7月14日 小樽市議会で市長が「小樽運河・倉庫で文化庁の意見は聞きたくない」と答弁。
1978年 昭和53年 8月9日 《守る会》組織部長豊富智雄氏死去
1978年 昭和53年 8月13日 《小樽・夢の街づくり実行委員会》(以下《夢街》)発足。
1978年 昭和53年 8月25日 道教育委員長が運河問題で小樽市長と懇談会開催。
1978年 昭和53年 9月12日 北海道新聞社主催シンポジウム「明日の小樽を考える」開催。
1978年 昭和53年 10月23日 1966年に計画決定された〈道道臨港線〉計画(建設省告示2912号)を立案した井上孝横浜国大教授(立案当時は東大教授)が市の招きで来樽、運河地区を視察。視察後の議員との質疑において「規定方針通り現計画を進めた方が小樽のためになる」と語る。
1978年 昭和53年 11月1日 《守る会》他保存4団体、共同で「アピール:よみがえれ小樽運河」(B4版、2p)を作成、全戸に配布。 A_1978_008_01.jpg
1978年 昭和53年 11月10日 《小樽運河を愛する会》(東京)が発足(以下《愛する会》)。
1978年 昭和53年 11月16日 市、「運河と臨港線:その役割と小樽の将来展望」と題した『広報おたる』11月臨時号(A5版、20ページ、市費355万円支出。市土木部作成)を発行、全戸に配布。
1978年 昭和53年 12月6日 《守る会》、小樽市の『広報おたる』に対する批判書を小樽市及び小樽市議会に提出。
1978年 昭和53年 12月10日 《夢街》、『ふぃえすた小樽』を創刊(以後、5年間で15号刊行)。 D_1978_001.pdf
1978年 昭和53年 12月11日~2月10日1979年 《守る会》、他5団体共催の「運河研究講座」第1期が開催される(全10講)。 A_1978_001_01.jpg
1978年 昭和53年 12月22日 《守る会》、小樽市の『広報おたる』に対する批判書を小樽市に説明。
1979年 昭和54年 1月 飯田勝幸北大助教授、「構想」案を完成。
1979年 昭和54年 2月10日 《愛する会》会報1号発行 E_1979_001_01.jpg
1979年 昭和54年 2月24日 小樽市、《守る会》の批判書に対し回答を文書で提示する。 X_1979_001_01.jpg
1979年 昭和54年 3月1日 観光資源保護財団より『小樽運河と石像倉庫』(観光資源調査報告Vol7)が刊行される。 A_1979_003.jpg
1979年 昭和54年 3月10日 北海道自然保護団体連合主催の「第8回自然保護シンポジウムで、《守る会》会長峯山冨美氏運河保保存に関して報告する。
1979年 昭和54年 3月17日 《守る会》他4団体共同主催で、「小樽運河を守る市民の夕」を開催する。
1979年 昭和54年 3月19日 《守る会》小樽市の運河公園構想に対して批判書No.2公表。 A_1979_002_01.jpg
1979年 昭和54年 3月28日 参議院予算委員会第4分科会で、共産党小笠原貞子議員の質問に対し、内藤文部大臣は「この文化遺産を失う事は大きな損失でなんとかしたい。必要であれば小樽に行って話してもよい」と回答する。
1979年 昭和54年 4月10日 《愛する会》、文化庁、建設省に小樽運河と周辺石像倉庫の全面保存を陳情する。
1979年 昭和54年 6月28日 建設省公園緑地課長が小樽運河視察のため来樽する。
1979年 昭和54年 6月29日 飯田勝幸北大助教授が市に委託されて作成した「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」公表、運河の埋め立て幅の縮小。 X_1979_004.pdf
1979年 昭和54年 6月30日 《守る会》、小樽市議会に陳情書提出(陳情第31号)。
1979年 昭和54年 7月1日 《守る会》、小樽運河研究講座全10回を講義録として発行する。 A_1979_006.pdf
1979年 昭和54年 7月3日 《考える会》、小樽市長および小樽市議会に陳情書提出。
1979年 昭和54年 7月8日~9日 ポートフェスティバル開催。15万人の人出となる。 C_1979_002_01.jpg
1979年 昭和54年 7月12日 《守る会》と《考える会》、道議会に陳情書提出。
1979年 昭和54年 10月1日 小樽市の総合調査としての『小樽運河史』を発行。(著者渡辺悌之助、刊行小樽市。奥付には昭和54年10月とあり発行日の記載なし)
1979年 昭和54年 10月15日 《守る会》、《夢街》、《考える会》、道に対して運河公聴会開催を要請する。
1979年 昭和54年 10月30日 《夢街》、小樽市にルート変更を陳情する。 D_1979_006.jpg
1979年 昭和54年 11月2日~6日 大国屋デパートで「小樽運河展」開催。
1979年 昭和54年 11月8日 《小樽運河を考える旭川の会》(以下《旭川の会》)発足。保存を訴えるアピール文発表。 F_1979_002.jpg
1979年 昭和54年 11月14日 市議会総務、建設両委員会、保存派の陳情4件不採用、道路建設促進の陳情2件採択、保存派各団体は「強行採決である」として反発。 X_1979_002.pdf
1979年 昭和54年 11月16日 《守る会》、《夢街》、《おたる総行動》、市長、市議会議長に抗議文を手渡す。
1979年 昭和54年 11月22日 《小樽運河条例をつくる直接請求の会》(以下《直接請求の会》)結成。署名を集める。
1979年 昭和54年 12月4日 小樽市、運河埋め立て計画案を道に提出する。
1979年 昭和54年 12月4日 《夢街》、「小樽名建築番付」を作成する。
1979年 昭和54年 12月21日 第4回小樽定例市議会本会議、道路建設促進の陳情2件を採択。野党議員退場の中での採決。
1979年 昭和54年 12月26日 建築専門家37名が小樽運河問題は慎重に審議するよう、道都市計画地方審議会に要望書提出する。
1979年 昭和54年 12月27日 《直接請求の会》、50、200名の署名を集める。(有効署名37、208名、署名簿3,613冊)
1980年 昭和55年 1月25日 《直接請求の会》、小樽市に小樽運河問題調査審議会条例制定を求める住民直接請求。
1980年 昭和55年 2月6日 小樽運河問題調査審議会条例制定を求める住民直接請求、臨時市議会で否決される。
1980年 昭和55年 2月28日~4月19日 第2期運河研究講座開催。(全10講) A_1980_007.pdf
1980年 昭和55年 3月10日 小樽市議会で、「環境整備構想」の一部実現不能と市長認める。
1980年 昭和55年 4月5日 「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」は違法な公金支出であるとして、住民監査請求が提起される。
1980年 昭和55年 5月10日 森本三郎氏の運河絵はがき完成、販売。
1980年 昭和55年 5月24日~27日 全国町並み保存連盟、「あたらしい町自慢の創造を」と題する「第3回全国町並みゼミ」を小樽で開催、全国から20以上の地域・保存団体が参加。最終日には「歴史的環境の保存・再生の事業こそ、80年代の都市計画事業の中心にすえられるべき課題だ」とする「小樽・函館宣言」が採択される。(24日~27日:於市医師会館、市公会堂) A_1980_009.pdf
1980年 昭和55年 7月3日 大原登志男市議らは、小樽市が飯田助教授に委託した「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」は「飯田助教授の構想には科学的根拠やデータが示されておらず、市の委託に基づく責務を履行していない」として、飯田助教授を相手取り委託料400万円の返還を求める損害賠償請求訴訟を起こす。
1980年 昭和55年 8月 小樽市、「小樽市の歴史的建造物及び景観地区調査」を実施、157棟を調査する(1981年3月まで実施)
1980年 昭和55年 8月7日 小樽市都市計画審議会、臨港線計画変更原案(=「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」)を、「環境の保全整備については、十分かつ慎重に配慮することを要望する」との付帯意見を付して承認
1980年 昭和55年 9月20日 飯田構想案を基にした〈道道臨港線〉の変更案(運河部分の一部幅員変更)が都市計画決定。(北海道告示2361号)
1980年 昭和55年 9月27日 「小樽運河を守る市民集会」開催。
1980年 昭和55年 10月6日 《愛する会》が中心になって、「小樽運河を考える東京集会」を開催する。 E_1980_002.jpg
1980年 昭和55年 10月14日 第3工区のうち、300mが改めて事業認可される。
1981年 昭和56年 1月 『季刊輸送展望』誌上において、西山夘三、井上孝、神代方雅の3名が運河保存と〈道道臨港線〉計画を巡って論争。(4月発行の178号まで)
1981年 昭和56年 1月19日 《守る会》と《夢街》が、小樽倉庫の現地保存を求める要望書を市長に提出する。
1981年 昭和56年 3月17日 志村市長、定例市議会予算特別委員会の席上、小樽倉庫を保存するため用地買収することを検討中であることを表明する。
1981年 昭和56年 5月12日 市議会総務常務委員会において、「文化財保護法による運河の保存は考えないのか」との質問に対し市教育委員会は「市独自の条例」で対処し、文化財保護法の適用は考えていない旨を表明する。
1981年 昭和56年 5月16日~6月29日 第3期運河研究講座開催。(全7講) A_1981_001.pdf
1981年 昭和56年 6月 《守る会》と《夢街》が、『小樽運河問題に関する報告書』を発行する。
1981年 昭和56年 6月24日 「公有水面埋め立て申請」書類に測量ミスと捏造があることが判明。
1981年 昭和56年 7月18日 《守る会》、『運河を埋めるな-保存要望意見書集』発行。 A_1981_002.pdf
1981年 昭和56年 9月16日 北海道小樽土木現業所、「公有水面埋め立て申請」出願取り下げ。
1981年 昭和56年 12月 「小樽運河とその周辺地区環境整備計画実施計画」、小樽市議会で了承。(北海道地区計画建築研究所が委託されて作成したもの)
1981年 昭和56年 12月24日 北海道小樽土木現業所、「公有水面埋め立て申請」再出願。
1982年 昭和57年 1月12日 「小樽運河を守る市民連絡会議」結成。
1982年 昭和57年 1月16日~27日 商工会議所、小樽市、関口デザイン(西武関係)がサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフを視察し観光開発に自信を深める。
1982年 昭和57年 3月3日 《愛する会》、小樽運河保存を求める陳情書を小樽市へ提出。
1982年 昭和57年 3月12日 小樽市、市議会予算委員会において運河埋め立てを前提とした関口プラン(西武の再開発案)を公表。
1982年 昭和57年 3月15日 《市民連絡会議》、『小樽運河を考える市民集会』を開催。医師会館。
1982年 昭和57年 2月23日 《守る会》、『小樽運河を考える自主講座』を開催。医師会館。
1982年 昭和57年 3月24日 市議会、埋め立てを決議。総事業費63億8千6百万円。同月末、〈道道臨港線〉運河部までの2,350m工事完了する。
1982年 昭和57年 3月24日 《守る会》、小樽市に対し、13団体共同で小埋め立てに対する強行採決に抗議し再度保存に向けた要望書を提出。
1982年 昭和57年 6月14日 小樽市が「小樽市歴史的建造物等保全審議会」を設置。
1982年 昭和57年 7月4日 《都市研究懇話会・水都再生のための全国会議準備会》主催、「都市の修復と再生に関する小樽シンボジウム」開催。《守る会》共催。 H_1982_001_01.jpg
1982年 昭和57年 8月26日 小樽市、公有水面埋め立て免許を再申請。
1982年 昭和57年 9月28日 公有水面埋め立てが免許される。
1982年 昭和57年 9月30日 西武流通グループ代表の堤清二氏、旭川で会見し「運河を埋め立てるなら、運河地区再開発には協力できない」と発言し、行政、経済界に激震が走る。
1982年 昭和57年 10月3日~11月16日 《守る会》運河クリーンキャンペーンを実施。清掃をメインに各種イベント実施。 A_1982_017_01.jpg
1982年 昭和57年 12月9日 運河のヘドロ固化工事着手。運河部分の工事が始まる。
1983年 昭和58年 2月15日 北一硝子三号館がオープン、多くの観光客でにぎわう。
1983年 昭和58年 3月16日 市、歴史的建造物として保存・再活用するため「小樽倉庫」(1894年建設)を買収。土地1億5千9百万円、建物7千万円。
1983年 昭和58年 4月10日 北海道知事選で横路孝弘氏が当選する。
1983年 昭和58年 4月23日 横路孝弘氏、北海道知事就任。
1983年 昭和58年 6月 中一夫氏個人誌『中くんジャーナル』創刊。
1983年 昭和58年 6月20日 《守る会》、「小樽運河通信」創刊。 A_1983_023_01.pdf
1983年 昭和58年 6月28日 小樽市が<道道臨港線>計画の基礎データとしている1976年実施の調査に対抗して、《守る会》が独自の交通量調査を実施する。 A_1983_003_01.jpg
1983年 昭和58年 7月15日 《小樽のまちづくりを考える会》、タウンフォーラムOTARU「港湾都市を再生する横浜市の実践」開催
1983年 昭和58年 7月20日 道議会において、知事答弁「小樽運河とその周辺地区環境整備計画との整合を図るなど市と十分協議して整備に努める」。
1983年 昭和58年 8月6日 東京世田谷区で「水辺環境シンポジウム83」が開催され、《守る会》から会員2名参加し、小樽の現状を報告する。
1983年 昭和58年 8月17日 商工会議所会頭、「埋め立ての見直し」を声明。
1983年 昭和58年 8月20日 小樽市長記者会見し、「既定方針通り推進する」と発言。
1983年 昭和58年 8月24日 「小樽経済人有志」が「商工会議所に勝手に連帯するアピール」を宣言。
1983年 昭和58年 8月25日 商工会議所緊急常議員会開催。「臨港線の建設は基本通り堅持していく。ただし行政とのコンセンサスが得られる代替案があれば、これを検討するにやぶさかではない」と発表する。
1983年 昭和58年 8月28日 「第6回ポートフェスティバル実行委員会」が緊急全員集会を開催し、「緊急アピール」を全会一致で採択。同アピールは「運河埋め立て計画は再検討すべき」と述べ、歴代「ポート」史上初めて運河保存を明言。同日、運河保存を訴えるプラカードを持って市内をパレード行進。 C_1983_001.jpg
1983年 昭和58年 9月12日 《小樽運河百人委員会》(以下《百人委員会》)結成、運河保存の署名運動を開始。 G_1983_001.jpg
1983年 昭和58年 9月25日 《考える会》、小樽運河保存を求める陳情書を小樽市議会へ提出。
1983年 昭和58年 9月26日 横路知事記者会見し、「コンセンサスが出来ぬ限り予定通り工事を実施する」と発言する。
1983年 昭和58年 9月26日 《百人委員会》、保存を訴えたアピール文書ビラを全戸配布する。 G_1983_004.jpg
1983年 昭和58年 10月3日 全国の大学教官約45名がどうと小樽市に対して、小樽運河埋め立て計画の再考するよう要望書提出。
1983年 昭和58年 10月15日 小樽市、《百人委員会》の配布した「アピール」に回答する形で『広報おたる』号外を発行し全戸配布する。 X_1983_003_01.jpg
1983年 昭和58年 10月18日 小樽青年会議所(JC)、運河全面保存の態度を決め、要望書をまとめる。
1983年 昭和58年 10月21日 小樽青年会議所(JC)が実施した小樽市民対象のアンケート結果、市民の57%が運河保存派であることが分かる。
1983年 昭和58年 10月23日 《考える会》、強行採決に抗議し、保存に向けた再度の要望書提出。
1983年 昭和58年 10月24日 横路知事記者会見し、「26日の埋め立て工事入札を予定通り実施する」と発言。
1983年 昭和58年 10月24日 《百人委員会》、横路知事、土木現業所へ入札延期の要望書を提出。
1983年 昭和58年 11月10日 《百人委員会》の署名、市人口約18万人の過半数を超える9万4千人を獲得と発表。(最終的に9万8千人)
1983年 昭和58年 11月11日 《百人委員会》横路知事に埋め立て見直しを求める要望書を提出。 G_1983_002.jpg
1983年 昭和58年 11月12日 小樽市、運河部分のくい打ち工事着手。
1983年 昭和58年 11月14日 小樽市長記者会見し、「既計画見直しは考えない」と発言。
1983年 昭和58年 11月19日 小樽市、《百人委員会》が提出した公開質問状に対し、「現行の計画が最善」であり「十分論議され行政決定されたものである」と回答。
1983年 昭和58年 12月1日 《百人委員会》、志村市長の退陣要求声明を発表。
1983年 昭和58年 12月5日 「小樽運河を殺すな!札幌集会」開催。
1983年 昭和58年 12月11日 《百人委員会》発行の『運河拾萬人新聞』号外発行。 G_1983_003.jpg
1983年 昭和58年 12月22日 小樽市議会が、「歴史的建造物及び景観地区保全条例」可決。
1983年 昭和58年 12月22日 道議会で横路知事答弁、「小樽市の都市計画に基づき進めている。道としては既定方針で取り進めている。ただ多くの保存を願う署名があること、その事実の重みをもっていると受け止めている」と発言。
1984年 昭和59年 1月13日 国の予算編成期に合わせて、志村市長が東京の中央省庁へ陳情。建設大臣に説明。
1984年 昭和59年 1月17日 《百人委員会》、水野建設大臣と田川自治大臣と会談、運河保存を陳情し、《百人委員会》の集めた9万8千にのぼる署名を提出。
1984年 昭和59年 1月19日 小樽市は《百人委員会》署名コピーを建設省から取り寄せて、署名簿の点検を開始する。
1984年 昭和59年 1月20日 水野建設大臣、横路道知事、志村市長、川合商工会議所会頭との4者会談を東京で行う。
1984年 昭和59年 1月27日 《百人委員会》、「市長リコール請求のための準備委員会」設立を声明、市長リコールの「可能性」を示唆する。
1984年 昭和59年 1月29日 保存運動側の「市長リコールの可能性」発言を受け、解決策を求めて地元財界のトップ会談開かれる。仲介役は地元選出の箕輪登代議士で、志村小樽市長、川合商工会議所会頭、山吹自民党小樽支部長ら7名が出席。
1984年 昭和59年 1月30日 横路知事、記者との茶話会で、「新しいコンセンサスに対して必要があれば泥をかぶるつもりである。新しいコンセンサスを得る事に努力する」と発言。 X_1984_002.pdf
1984年 昭和59年 1月31日 横路知事、記者会見の席上「状況が少しずつ動きつつあり、新しいコンセンサスを得るため私も努力したい」等と発言し、運河埋め立て見直しを示唆する。
1984年 昭和59年 2月1日 公明党道本部、埋め立て推進路線を変更し、運河全面保存へ方針転換することを決定。
1984年 昭和59年 2月2日 自民党道連、運河埋め立て・道路建設方針を堅持することを再確認。
1984年 昭和59年 2月5日 《百人委員会》、市内で新年パーティ開催。約150名参加。
1984年 昭和59年 2月7日 第2回目の地元政財界のトップ会談を札幌で開催するも平行線をたどる。
1984年 昭和59年 2月10日 《百人委員会》、小樽政財界のトップ会談の公開を求める声明を出す。
1984年 昭和59年 2月12日 第3回目の地元政財界のトップ会談が開催されたが、成果が出ないままに打ち切り。会談後、箕輪代議士は「運河問題は行政機関が解決すべき」と発言。 G_1984_024.pdf
1984年 昭和59年 2月15日 《百人委員会》、市内で全員集会を開催。志村市長リコール準備のための組織設置を決議。
1984年 昭和59年 2月20日 小樽市、1983年秋実施の《百人委員会》の署名を選挙人名簿に照らし、職員数名とアルバイト110名でチェックした結果「結局、選挙人名簿に該当したのは2万8千600人」だったと公表。
1984年 昭和59年 2月22日 自民党小樽支部、リコールの動きに対抗して近く「志村市政を守る会」を発足させることを決める。
1984年 昭和59年 2月22日 《百人委員会》、署名点検結果発表に対して、抗議声明を発表。
1984年 昭和59年 2月28日 小樽市歴史的建造物保全審議会が初会合。
1984年 昭和59年 3月3日 社会党小樽総支部、運河埋め立て工事の一時凍結を小樽市に求める方針を決める。
1984年 昭和59年 3月5日 《百人委員会》、内部に政策準備委員会を設置し、リコール準備開始。 G_1984_013.pdf
1984年 昭和59年 3月6日 《守る会》、小樽市長に対し署名点検と公表についての公開質問状提出
1984年 昭和59年 3月7日 《百人委員会》、『運河拾萬人新聞』創刊 G_1984_022_01.pdf
1984年 昭和59年 3月8日 横路知事、道議会本会議において「地元の努力を見守る」とこれまで通りの答弁を繰り返す。
1984年 昭和59年 3月8日 《道道小樽臨港線早期完成促進期成会》結成総会開催。
1984年 昭和59年 3月8日 《守る会》、埋め立て工事見直しの請願書を市議会に提出。
1984年 昭和59年 3月15日 大原登志男市議らは、「工事が進行し裁判の意味がなくなった」として、飯田助教授を相手取った損害賠償請求訴訟を取り下げる。
1984年 昭和59年 3月16日 《守る会》他4団体共同で、「小樽運河を守り抜く全国集会」開催。(開催地札幌)
1984年 昭和59年 3月17日 《守る会》他4団体共同で、全国集会で採決されたアピール文を横路知事に提出。 A_1984_009.jpg
1984年 昭和59年 3月19日 市議会、《百人委員会》が提出した運河保存の請願を不採択。
1984年 昭和59年 3月20日 《小樽のまちづくりを考える会》、タウンフォーラムOTARU「港湾都市を再生する-小樽運河が意味するもの―」開催 A_1984_033.pdf
1984年 昭和59年 3月23日 川合商工会議所会頭は、運河見直しに理解を求める文書を会議所議員76名に送付。 Z_1984_001_01.jpg
1984年 昭和59年 3月26日 水野建設大臣、横路道知事と会談し、「小樽博覧会の期間中は、運河埋め立て工事の一時凍結を」と発言。同日、志村市長は記者会見で「計画を変更する考えはない。今後、道から具体的なことを聞き、対処を考える」と発言。
1984年 昭和59年 3月27日 前日の水の建設大臣と横路知事との会談・発言をめぐって、道議会自民党が「議会軽視」だと反発。道議会紛糾。
1984年 昭和59年 3月27日 稲村北海道開発庁長官、記者会見席上、「一時休戦する措置は正しいと思う」と発言。運河埋め立ての一時工事凍結を支持。
1984年 昭和59年 3月29日 《道道小樽臨港線早期完成促進期成会》、小樽市内で役員会を開き、従来通り工事継続を訴えて行くことを確認。
1984年 昭和59年 4月1日 《百人委員会》、『運河拾萬人新聞』第2号発行。 G_1984_023_01.pdf
1984年 昭和59年 4月3日 横路知事記者会見をし、「保存派と埋め立て派が話し合いのテーブルに着くよう努力したい」と発言。
1984年 昭和59年 4月11日 小樽市長、《守る会》の3月6日の公開質問状に対し、「名簿中の有権者数確認が主な目的であり、人権侵害に当たらない。市民の意向を公費で調査するのは公務である」と回答。
1984年 昭和59年 4月17日 横路知事記者会見し、「20日に小樽市に行き、小樽市、商工会議所、守る会等代表と個別に会い、今後住民のコンセンサスづくりのため隔代表がテーブルに着くよう要請する」と発言。
1984年 昭和59年 4月20日 横路知事は小樽市に出向き、小樽市長、臨港線早期完成促進期成会会長、商工会議所会頭、《守る会》及び《百人委員会》代表と話しあう。
1984年 昭和59年 4月25日 《臨港線早期完成促進期成会》、「道道臨港線でよみがえる運河」のチラシを市内に配布。 X_1984_001_01.jpg
1984年 昭和59年 5月15日 《百人委員会》、「港湾都市を再生する」シンポジウム開催。
1984年 昭和59年 5月24日 横路北海道知事を調停役に、第1回《五者会談》開催。(4回まで実施)
1984年 昭和59年 5月27日 社会党小樽総支部定期大会開催。運河全面保存を目指す方向で今後組織討議していくことを確認。
1984年 昭和59年 6月10日~8月26日 《小樽博覧会》開幕。(8月26日まで)
1984年 昭和59年 6月 小樽商科大学教官8名の研究チーム、「地方都市再開発政策の総合科学的研究」のテーマで文部省科学研究費を交付される。(1988年度まで、総額10、20万円)
1984年 昭和59年 6月15日 《守る会》、横路知事に対し五者会談に関する要望書提出。 A_1984_025_01.jpg
1984年 昭和59年 6月15日 第2回《五者会談》開催。
1984年 昭和59年 6月28日 《百人委員会》内部の「小樽市長志村和雄リコール準備委員会」(代表世話人=村上利勝氏)が市内で単独記者会見、1週間以内にリコールの請求手続をとることを表明。《五者会談》開催中のリコール運動は時期尚早とする《百人委員会》はこの会見内容に困惑、これを機に保存運動内部で論争激化。
1984年 昭和59年 7月3日 リコール準備委員会開催。リコール実行委員会設立は一時延期することに決定。
1984年 昭和59年 7月5日 《守る会》幹事会開催。市長リコールに関しては総会に諮ることを決定。
1984年 昭和59年 7月13日 《百人委員会》集会。リコールのさらなる延期を確認。
1984年 昭和59年 7月20日 リコール準備委員会開催。リコール準備委員会の活動を一時停止する事を決定。
1984年 昭和59年 7月23日 《百人委員会》集会。リコール準備委員会の活動を一時停止し、五者会談開催継続に向けて努力することを確認。
1984年 昭和59年 8月17日 第3回《五者会談》開催。
1984年 昭和59年 8月18日 第4回《五者会談》でも合意に達せず、記者会見で知事は「行政手続きに従って埋め立て作業進める」と語る。同時に知事は今後の小樽市の再開発を検討する《小樽市活性化委員会》構想を「調停案」として表示。
1984年 昭和59年 8月24日 《守る会》会長の峯山冨美氏が「運河を守れなかった責任を取る」かたちで辞任、保存運動の内部分裂は決定となる。
1984年 昭和59年 8月25日 商工会議所、常議員会を開き〈道道臨港線〉建設工事を確認。事実上の埋め立て確認を議決。
1984年 昭和59年 8月26日 《百人委員会》、今後のあり方を会員に諮るアンケートを発送。 G_1984_025.pdf
1984年 昭和59年 9月1日 《百人委員会》総会開催(於道新ホール)。《百人委員会》は解散と決定(一部のメンバーは「この議決は無効」と主張)。 G_1984_017.pdf
1984年 昭和59年 9月8日 《百人委員会》の解散に反対するメンバーの村上勝利氏他が、市内3か所で街頭行動。
1984年 昭和59年 10月 《守る会》会長を辞任した峯山冨美氏を支持する保存派が、《小樽再生シンポジウム実行委員会》を結成。
1984年 昭和59年 10月20日 《小樽再生シンポジウム実行委員会》、小樽再生シンポジウム「港湾都市の再開発戦略と水辺空間の再生」を開催。 H_1984_002.pdf
1984年 昭和59年 10月27日 《百人委員会》解散無効派、「運河保存の灯を消すな」というチラシ配布。
1984年 昭和59年 10月28日 《百人委員会》解散無効派及び《守る会》残留派、「小樽運河を守る全道集会」を開催。
1984年 昭和59年 11月14日 《小樽市活性化委員会》設立準備委員会開催。
1984年 昭和59年 11月19日 《小樽市活性化委員会》の委員15名決定。これに対して《守る会》残留派の5人のメンバーは小樽市、商工会議所等関係各機関に対し、「運河保存を放棄した活性化委員会を認めない」と抗議声明を送付。
1984年 昭和59年 11月20日 《小樽市活性化委員会》(以下《活性化委員会》)設立総会が開催され、座長に藤井栄一小樽商大学長を選出(於小樽商工会議所会議室:以後、1987年2月27日までに合計20回の本委員会、6回の小委員会を持つ)。
1985年 昭和60年 3月 宮本憲一大阪市大教授、朝日新聞紙上に「今からでもおそくない。小樽運河とその周辺の保存」と提言。
1985年 昭和60年 4月2日 「小樽市歴史的建造物等保全審議会」、歴史的建造物28棟を答申。
1985年 昭和60年 4月26日 小樽の土地利用高度化と「シェイプアップ・マイタウン計画」策定の推進等を目的とした「小樽都市整備懇談会」が発足(座長=川合一成市商工会議所会頭)。
1985年 昭和60年 6月7日 小樽市役所の若手職員、小樽活性化提言を出し合う懇談会「フライデー・ドリーム」結成。
1985年 昭和60年 7月23日 小樽市、条例に基づき歴史的建造物14棟を指定。
1985年 昭和60年 9月5日 小樽市、条例に基づき歴史的建造物1棟を指定。
1985年 昭和60年 8月9日 北海道、建設省の「シェイプアップ・マイタウン計画」の候補として小樽市を選定するよう意向表明書を提出。
1985年 昭和60年 8月21日 クラフトセンター計画 小樽市が基本計画を決定。
1985年 昭和60年 9月3日 旧小樽倉庫を再利用した小樽博物館オープン。
1985年 昭和60年 9月10日 「小樽都市整備懇談会」、報告書『おたる街づくり計画<中心市街地>』を小樽市に提出。
1985年 昭和60年 9月10日 「(仮称)おたるロマンチック街道をつくる会」設立総会開催。
1985年 昭和60年 10月 小樽港湾管理者、改訂小樽港湾都市計画書を公表。
1985年 昭和60年 10月29日 運河保存派の市民が《小樽再生フォーラム》を結成し設立総会を開催(於道新ホール)。前年に発足した《小樽再生シンポジウム実行委員会》は《小樽再生フォーラム》に発展的に吸収・解消。 I_1985_001.pdf
1985年 昭和60年 11月15日 旧国鉄手宮線廃止。105年の歴史に幕を閉じる。
1985年 昭和60年 11月30日 《小樽再生フォーラム》、第1回公開シンポジウム「シェイプアップ・マイタウン構想を聞く会」開催。
1986年 昭和61年 2月15日 《小樽再生フォーラム》他4団体、第3回公開シンポジウム「小樽の街並と建築」開催。
1986年 昭和61年 3月 <道道臨港線>の運河に係わる部分が竣工、運河公有水面埋め立ても竣工認可。
1986年 昭和61年 4月16日 建設大臣、小樽市の「小樽市中心市街地活性化計画(シェイプアップ・マイタウン計画)」を認定(認定書授与は6月17日)。
1986年 昭和61年 4月18日 《活性化委員会》、「小樽運河港湾地域整備調査報告書」(小樽市の委託を受けて財団法人環境文化研究所が実施)をまとめ、公表。
1986年 昭和61年 4月20日 《小樽再生フォーラム》会報、『こみゅにけいしょん』創刊
1986年 昭和61年 4月23日 《小樽再生フォーラム》、「小樽都市計画道路の変更に関する意見書」を横路知事に提出。
1986年 昭和61年 5月8日 <道道臨港線>部分開通式が色内川小広場で開かれる。運河散策路完成。
1986年 昭和61年 5月12日 「小樽市歴史的建造物等保全審議会」、景観候補2か所を小樽市教育委員会に正式答申。
1986年 昭和61年 9月11日 《小樽再生フォーラム》、「川合会頭のお話を聞く会」開催。
1986年 昭和61年 9月28日 「これからの小樽を考える懇談会」開催。
1986年 昭和61年 9月30日 《考える会》、2冊組となっている『小樽運河保存の運動<歴史編><資料編>』を出版する。
1986年 昭和61年 11月15日 北海道読者新聞社刊「読書北海道」、小樽運河特集記事を組む。
1986年 昭和61年 12月4日 小樽市は「小樽市歴史的建造物等保全審議会」の正式答申に基づいて、運河周辺地区と色内大通り・緑山手大通り地区の2地区を景観地区に指定する。
1987年 昭和62年 1月13日 《守る会》初代事務局長藤森茂男氏死去。
1987年 昭和62年 1月23日 《活性化委員会》が最終報告書『小樽運河港湾地域整備活性化構想 ウォーター・フロンティア21』を発表、「交・遊・技・芸」構想を提案。
1987年 昭和62年 2月28日 《小樽再生フォーラム》、公開シンポジウム「小樽活性化委員会最終報告書を聞く会」を開催する。
1987年 昭和62年 4月 小樽市長選挙で新谷昌明氏市長となる。
1987年 昭和62年 7月23日 《小樽再生フォーラム》、新谷市長に「新しい小樽市政に対する要望書」提出。
1987年 昭和62年 8月26日 《小樽再生フォーラム》と新谷市長の懇談会開催。
1987年 昭和62年 8月29日 小樽市、小樽市都市景観形成委員会要綱を公布する。
1987年 昭和62年 8月30日 第1回小樽市都市景観形成委員会開催。
1987年 昭和62年 10月1日 《小樽再生フォーラム》、市長に小樽商大正門横のオコバチ川改修についての再考を求める要望書を提出。
1987年 昭和62年 11月 小樽商科大学、公開講座「や小樽の再開発と活性化」を開催。
1988年 昭和63年 1月 市の総合計画策定にあたり市が「小樽まちづくり市民懇談会」を設置し、110人の委員を任命。
1988年 昭和63年 3月31日 小樽市、「都市景観基本構想」を策定。
1988年 昭和63年 4月 運河沿いに「小樽運河工芸館」がオープン。
1988年 昭和63年 4月 小樽商工会議所内に、任意グループとして「ウォーターフロント再開発研究会」設立。
1988年 昭和63年 7月12日 小樽市、「新総合計画(1989年度~1998年度)」の基本構想をまとめる。
1988年 昭和63年 7月 運河・銀行街地区の「ライト・アップ」サマーフェスティバルが開始(1988~1994)
1988年 昭和63年 7月23日 運河沿いの倉庫を再利用したクラフト店舗「グラスシップ」が開店。
1988年 昭和63年 8月3日 「歴史的港湾都市のズームアップ協議会」結成。
1988年 昭和63年 8月 「ウォーターフロント再開発研究会」中間報告書まとめる。
1988年 昭和63年 9月 小樽市、「都市景観アンケート調査」実施。
1988年 昭和63年 10月 〈道道臨港線〉全線竣工。
1988年 昭和63年 11月 「ウォーターフロント再開発研究会」、「野外博物館」構想を発表。
1988年 昭和63年 12月21日 〈道道臨港線〉開通式が行われる。
1989年 平成元年 1月3日 西武セゾン主導で再開発を小樽市と合意し年内に計画案作成へ。
1989年 平成元年 1月27日 「道道小樽臨港線の完成を祝う会」開催され、約120人が出席(於小樽国際ホテル)。併せて「21世紀の街づくり」講演会を開催。
1989年 平成元年 2月 小樽市、「小樽運河とその周辺地区環境整備計画」の見直し案をまとめる。従来方針の運河北側の埋め立てを取りやめ、散策路整備や公園設置などの総合的な面的整備を行うことを決定。
1989年 平成元年 2月11日 《小樽再生フォーラム》、映画「柳川掘割物語」上映会開催。
1989年 平成元年 2月17日 小樽市都市景観形成委員会選定により、市内5か所が「第1回都市景観賞」を受賞する。
1989年 平成元年 3月1日 「小樽港再開発計画委員会」、小樽港再開発計画の概要をまとめ公表。
1989年 平成元年 3月 小樽商科大学の研究チーム、最終報告書を発表。
1989年 平成元年 3月31日 道道小樽臨港線3、350mの全線開通。
1989年 平成元年 5月30日 小樽市、建設省の「都市景観形成モデル都市」に指定される。
1990年 平成2年 3月1日 旧小樽倉庫を再利用した<運河プラザ>がオープンする。
1990年 平成2年 5月26日 運河沿いの観光関連業者21社、《小樽海岸通り連絡会》を発展的に解消して運河地区の観光PRを目的とした《小樽海岸通り21》を発足させる
1990年 平成2年 6月2日 小樽商科大学篠崎ゼミ公開シンポジウム「今小樽で観光を考える」開催。
1990年 平成2年 6月4日~5日 北海道、小樽市、日本環境協会によるシンポジウム「地域特性を生かした快適環境づくり:住みよい、住みたい、快適なまち」開催。
1990年 平成2年 9月13日 西武主導を軌道修正、倉庫群再開発準備室は他業者プランも検討へ。丸井今井プラン提示し再開発業者となる。
1990年 平成2年 12月26日 小樽運河北端部(通称「北運河」)の散策路完成。
1991年 平成3年 3月23日 小樽市他主催の「景観シンポジウム -ふるさとおたるを創る-」を開催。約200人の参加者。
1991年 平成3年 9月5日 倉庫群再開発準備室は西武案と丸井今井案を検討した結果、丸井今井編んで再開発する事を決定し協力を要請した。
1991年 平成3年 9月15日 小樽市、「都市景観及び条例についてのアンケート調査」を実施。
1991年 平成3年 10月15日 大家倉庫、ブリキおもちゃの博物館にするために改装工事着工。
1992年 平成4年 3月4日 丸井今井が倉庫群の再開発案、当初案から事業費倍の47億円に増える。
1992年 平成4年 3月25日 小樽市歴史的建造物等保全審議会と小樽市都市景観形成委員会が合同委員会開催。「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」の施行規則を審議決定。両委員会は解散。
1992年 平成4年 3月31日 「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」公布。
1992年 平成4年 4月1日 「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」施行(同日、小樽市条例第25号を廃止)。
1992年 平成4年 4月1日 小樽市役所内に都市デザイン課発足。
1992年 平成4年 4月 小樽市、91年度の商業統計調査の結果(概数)を公表、年間商品販売額が初の4千億円台を突破。
1992年 平成4年 5月~ 小樽市助成金による旧百十三銀行(現千秋庵)の修復工事開始。他にも小樽聖公会、旧安田銀行小樽支店などの小樽市指定歴史的建造物の修復工事が相次ぐ。
1992年 平成4年 6月20日 《小樽再生フォーラム》、第1回「小樽街並み散歩」実施。
1992年 平成4年 7月30日 「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観審議会」が「小樽歴史的建造物保全審議会」及び「小樽市都市景観形成委員会」に代わって設置される。
1993年 平成5年 3月30日 小樽市歴史的建造物実態調査委員会、調査報告書を小樽市に提出。
1993年 平成5年 6月15日 小樽築港駅貨物ヤード跡地まちづくり検討協議会を開催。
1994年 平成6年 3月31日 小樽市の人口、59年ぶりに16万人台を割り込み、15万9千621人に。
1994年 平成6年 3月31日 小樽市歴史的建造物実態調査委員会の調査報告書が『小樽市の歴史的建造物』として刊行される。(発行は小樽教育委員糧、編集は日本建築学会北海道支部)
1994年 平成6年 4月4日 運河沿いの倉庫群の再開発を検討していた「倉庫群再開発準備室」は、不況により丸井今井による一体開発案を断念、同室の解散を決定。
1994年 平成6年 4月12日 《小樽再生フォーラム》他3団体、臨港地区のパチンコ店出店予定問題に関して計画変更を求める要望書を新谷市長宛てに提出。
1994年 平成6年 5月22日 《小樽再生フォーラム》、第17回全国街並みゼミにおいて、「全国街並み保存連盟」無に加盟する。
1994年 平成6年 8月6日~7日 第17回ポートフェスティバル開催され、今回をもってポート17年の歴史を閉じる。
1995年 平成7年 1月31日 《小樽再生フォーラム》、連続セミナー「築港ヤード再開発を考える」第1回を開催(於道新ホール)
1995年 平成7年 3月24日 小樽市、『小樽市史第9巻行政編(下)』刊行。第8章「道道小樽臨港線と小樽運河」を加え、260ページにわたり〈道道臨港線〉と小樽運河保存運動について記載。
1995年 平成7年 5月22日 《小樽塾》、「小樽塾まちづくりフォーラム」開催する。
1996年 平成8年 3月2日 《築港ヤード開発差し止め春を呼ぶ会》結成。集会を開催。
1996年 平成8年 4月20日 小樽交通記念館オープン。
1996年 平成8年 9月2日 小樽市議会、築港ヤード跡地再開発特別委員会が開催される。
1997年 平成9年 3月2日 小樽まちづくり協議会、連続シンポジウム「手宮線・Open A Way・小樽」の第1回「小樽のまちづくりを振り返る」を開催する。
1997年 平成9年 7月1日 堺町通りが、色内から入船方面への一方通行となる。
1997年 平成9年 11月13日 小樽市、昨年度実施した公害調査概要をまとめる。運河の北浜橋付近が3年連続で国の定める環境基準値を超え、水質汚染が進んでいることが分かる。
1997年 平成9年 11月27日 小樽市と「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観審議会」はしないホテルで「小樽八景」を発表。
1998年 平成10年 1月 小樽観光誘致促進協議会、『小樽観光を考える』を刊行「小樽観光誘致促進協議会調査研究部会編(1998)」。
1998年 平成10年 3月1日 小樽まちづくり協議会、「手宮線・Open A Way・小樽:手宮線プラン小樽まちづくり連続シンポジウム報告書」(A4版、243p)を刊行。
1998年 平成10年 10月28日 旧日本郵船の建物前に運河公園がオープン。旧日本郵船小樽支店時代に舟入間となっていたところを埋め立てた跡地を利用。
1999年 平成11年 2月11日~21日 第1回「小樽雪あかりの路」開催。総入場者は約18万人。この年の観光客入り込み数は約972万人を記録、これをピークに以後減少へ転じる。
1999年 平成11年 3月11日 小樽ベイシティ開発による「マイカル小樽」正式オープン。
2000年 平成12年 2月1日~2月22日 《守る会》元会長の峯山冨美氏、北海道新聞夕刊「私のなかの歴史」欄に、「地域に生きる」と題して連載。
2000年 平成12年 10月4日 日本銀行小樽支店、2001年度末に支店廃止を決定。小樽市に方針を伝える。全国の支店では初めての廃止である。
2001年 平成13年 6月7日 日本銀行、小樽支店廃止後売却予定を変更し資料館にする事を決定。
2001年 平成13年 9月28日~30日 小樽市内にて「第24回全国町並みゼミ小樽大会」を開催。
2001年 平成13年 11月3日 旧手宮線路跡地を散策路として一部整備。
2001年 平成13年 11月14日 旧手宮鉄道施設が重要文化財に指定される。
2002年 平成14年 9月2日 市指定歴史的建造物・北洋銀行旧小樽支店(「おたる無尽」)を買い取った市民有志団体「小樽トラスト協議会」がNPO法人に認定される。
2003年 平成15年 4月28日 《守る会》元会員であり、運河保存運動の中心的役割を担った山口保氏が小樽市議選に立候補し当選。
2003年 平成15年 5月14日 日本銀行旧小樽支店金融資料館が開館。
2004年 平成16年 6月30日 小樽市長と市民の「語る会」開催。《小樽再生フォーラム》が「運河保存の経緯をもっと広めて欲しい」と提言する。
2005年 平成17年 2月8日 小樽市の「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観審議会」、罰則付きの景観条例などを制定する方向で検討を開始。
2005年 平成17年 4月4日 日本とアイスランドの学生で構成された「日本アイスランド学生外交会議」が、小樽市内において「水環境とテクノロジー」を考えるフォーラムを開催。
2005年 平成17年 9月6日 色内に建設中の高層マンションについて、《小樽再生フォーラム》が緊急市民集会を開き、業者に景観への配慮を求める要望書を採択。
2005年 平成17年 9月20日 高層マンションについて、《小樽再生フォーラム》が2回目の緊急市民集会を開き、景観保護に関してのシンポジウム開催を検討する。
2005年 平成17年 9月16日~9月18日 岐阜県美濃市で開催された全国街並みゼミにおいて、小樽運河地区の景観保存のための特別決議が採択される。
2006年 平成18年 3月27日 JR小樽駅建物が国の有形文化財にしてされる。
2006年 平成18年 7月19日 旧三菱銀行小樽支店の建物に、商業漆瀬「小樽運河ターミナル」が開業。
2006年 平成18年 11月1日 小樽市、景観法に基づく「景観行政団体」となる。
2007年 平成19年 3月29日 小樽観光協会と小樽観光誘致促進協議会が統合する。(小樽観光協会に統一)
2007年 平成19年 7月14日 小樽交通記念館と青少年科学技術館を統合し、小樽市総合博物館オープン。旧小樽倉庫を利用した場所は、運河館として継続運営。
2008年 平成20年 5月30日 峯山冨美氏、「小樽運河と石造倉庫群の保存に関わる市民運動を通して小樽都心部の復興・再生に貢献した業績」により、2008年日本建築学会文化賞を受賞。
2008年 平成20年 11月5日 峯山冨美氏の日本建築学会文化賞を受賞を記念して、市民有志により小樽運河公園に顕彰碑建立。
2008年 平成20年 11月7日 日本建築学会北海道支部・日本都市計画学会北海道支部の主催で「小樽運河と石造倉庫群の保存運動から何を受け継ぐか」シンポジウム開催、約450名が来場。
2009年 平成21年 10月28日 帝国データバンク札幌支店の調査が公表され、20年前と比較すると、石造倉庫群の約3分の1が解体されたと報告。
2010年 平成22年 12月30日 《守る会》元会長の峯山冨美氏死去。
2011年 平成23年 8月30日 小樽市水道局、奥沢水源地にある奥沢ダムで堤部分の陥没が見つかり、奥沢ダムの廃止を決定。ただし、階段式溢流路「水すだれ」や奥沢浄水場は残すこととする。
2012年 平成24年 3月31日 小樽市内最古の小学校、量徳小学校閉校。1983年(明治6年)、私塾を元に開校した。
2013年 平成25年 5月11日 「カジノ誘致に反対する小樽市民の会」結成される。主要メンバーに元保存運動参加者。
2013年 平成25年 9月9日 中松義治小樽市長、第3回定例市議会の答弁でカジノ誘致を明言。
2013年 平成25年 10月15日 1933年(昭和8年)10月15日竣工式を行った小樽市役所本館が筑後80年となる。
2014年 平成26年 1月4日 これまで建築年賀不明だった旧手宮鉄道施設の機関車庫1号が、古民家から見つかった写真により1908年であることが判明。
2015年 平成27年 10月16日 創業114年になる酒造会社北の誉小樽工場の操業中止。工場群は貴重な近代遺産として保存の声上がる。
2016年 平成28年 11月6日 旧手宮線路跡地の散策路を於古発通りから手宮までの全区間整備完了。
2017年 平成29年 9月1日 旧拓殖銀行小樽支店等、小樽運河周辺の建物を活用した小樽芸術村がグランドオープン。
2018年 平成30年 2月20日 小樽運河周辺の景観について30年以上にわたって調査研究を続けている法政大学教授堀川三郎氏が、『町並み保存運動の論理と帰結 小樽運河問題の社会学的分析』(全504ページ)を刊行する。
2018年 平成30年 5月20日~7月8日 北海道新聞小樽文化センター特別講座「小樽運河保存からみるまちづくり市民運動」開催。全5回
2018年 平成30年 5月 日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に、旧北浜地区倉庫群など小樽市内7件追加認定される。
2018年 平成30年 11月1日 「小樽の鉄道遺産」が北海道遺産に追加認定される。
2019年 平成31年
令和元年
3月 小樽市、「小樽市文化基本構想」を策定する。
2019年 平成31年
令和元年
5月20日 「炭鉄港」が日本遺産に認定される。小樽では小樽港北防波堤などが構成文化財として選ばれた。
2020年 令和2年 7月26日 小樽運河に係留していた小樽最後の艀(はしけ)が老朽化のため撤去される事が明らかになる。
2020年 令和2年 10月8日 北海製缶が保有している第3倉庫を、老朽化のため年度内の解体撤去を検討していることが明らかになる。
2020年 令和2年 10月22日 小樽運河及び於古発川に大量の鮭が遡上。原因は不明。
2020年 令和2年 10月29日 第3倉庫の解体撤去は1年間延ばし来年秋までとし、その間に小樽及び経済界等と保存活用の検討を行う事となった。
2021年 令和3年 3月30日 北海製缶第3倉庫の保存活用に向けて、「第3倉庫活用ミーティング」グループが市民向け勉強会を開催。小樽市民センターのマリンホールに市民約150名集まる。
2021年 令和3年 3月23日 小樽市、文化庁日本遺産に「北海道の『心臓』と呼ばれたまち・小樽」として応募。昨年6月に提出し落選したものだが内容を再検討して、再度応募した。
2021年 令和3年 7月16日 小樽市が文化庁日本遺産に応募した「北海道の『心臓』と呼ばれたまち・小樽」が「候補地域」に選ばれる。候補地域に選ばれ、その後3年間の取り組みが充実したと評価されれば日本遺産に認定される。
2021年 令和3年 8月3日~8月22日 《小樽運河新世紀フォーラム》、《守る会》元会長峯山冨美氏没後10年企画展を開催。
2021年 令和3年 12月22日 小樽市は北海製缶から第3倉庫の土地建物の無償譲渡と保全費として1000万円の寄付を受ける。
2022年 令和4年 10月15日 小樽市制100周年を記念した小樽市民講座として、小樽運河周辺の景観調査研究を30年以上継続して実施している法政大学教授堀川三郎氏が講演。観光都市小樽は、歴史的な街並みが失われ続けており、「『終わりの始まり』が始まっている」と述べる。
2022年 令和4年 10月21日 小樽市制100周年記念式典を開催。
2022年 令和4年 10月22日 小樽市制100周年記念誌『小樽市100年の歩み』を一般書店で販売。
2023年 令和5年      

<参考文献>
・「小樽運河問題の20年」 発行年月日 未記載、発行元 小樽再生フォーラム、編集者 堀川三郎、森下満、柳田良造
・「町並み保存運動の論理と帰結 –小樽運河問題の社会学的分析–」 発行年月日 2018年2月20日初版、発行元 東京大学出版会、著者 堀川三郎
・「小樽市史第9巻」 発行年月日 1995年3月24日、発行元 小樽市、編集者 市史編纂室
・「小樽運河保存の運動 歴史編 資料編」発行年月日 1986年9月30日、発行元 「小樽運河保存の運動」刊行会、編集者 「小樽運河問題」を考える会
・「小樽市100年の歩み」 発行年月日 2022年10月(※発行日は奥付未記載)、発行元 小樽市、編集者 小樽市市制100周年記念誌編集委員会
・「『あなたのまちを愛してね』峯山冨美没後10年記念誌」 発行年月日 2021年8月3日、発行元 峯山冨美没後10年企画展実行委員会、編集者 峯山冨美没後10年企画展実行委員会
・「小樽運河を守る運動の経緯」記述者不明、個人所蔵小樽運河資料
・「街の再生をめざして―小樽臨港線建設の記録-」発行年月日 2019年12月20日、発行元 北海道土木協会、編集者 北海道土木工業新聞社

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