豪商たちの浪漫を運ぶ
北前船が築いた商都小樽の礎

北前船ロゴ

日和山

祝津の日和山は、古くから船乗りたちが日和(天候や空模様)を見た場所。明治16(1883)年に北海道で2番目となる灯台が設置され、航海の大切な目標となりました。

北前船イラスト

多くの北前船が寄港し、賑わう小樽港

多くの北前船が寄港し、賑わう小樽港

北前船がもたらした「交易」と「公益」

江戸時代中期から明治30年代にかけて、北海道と大阪を主に日本海周りで商品を売り買いしながら結んでいた北前船。最盛期には、1度の航海で約1億円(千両)もの利益を得たといわれ、驚くほど多種多様の商品を扱っていたことから、「動く総合商社」と形容されます。北前船は、物だけでなく人や文化を運び、北前船主が建造した大規模な木骨石造倉庫は、小樽に数多く残っています。

小樽の「もち文化」

北前船によってもち米や砂糖が移入され、道内の小豆なども集まり、早くから菓子製造が盛んだった小樽。特にもちは、港湾労働者に腹持ちが良いと好まれました。

もち文化

旧小樽倉庫

北前船ロゴ

旧小樽倉庫
 ●色内2丁目1-20

北前船主がつくった倉庫

明治23(1890)年から27(1894)年にかけて北前船主・西谷庄八と西出孫左衛門によって建設。レンガ造りの事務所を中心に左右対称に倉庫が配置された小樽最大の大型倉庫です。

木骨石造

外側は石積み、内部に木の骨組みを持つ構造で、高い防火性と貯蔵に適した特性から普及し、小樽の独特な景観を創り出しています。

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小樽市総合博物館運河館

小樽市の歴史と自然環境について、数多くの資料を所蔵。北前船の模型や帆の実物などが展示されています。

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ルタオ運河プラザ店

レトロで落ち着いた雰囲気のルタオ。カフェ、バーコーナーなどを併設し、ここでしか味わえない限定メニューも。

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小樽百貨UNGA↑うんがぷらす

魅力溢れるオリジナルのお菓子や海産品ギフト、クラフトなどの商品展開で、北前船とともに歩んだ小樽の物語を伝えています。

ニシン

江戸時代から始まったニシン漁。肥料や保存食 (身欠き鰊)として北前船で関西に運ばれ、莫大な富をもたらしました。かつての小樽の繁栄はまさにニシンとともにありました。

ニシン

装飾
炭鉄港ロゴ

北の産業革命と
港湾工学の父が築いた鉄路と港

明治の国家プロジェクト
北海道内陸で産出した石炭を小樽から全国へ

明治維新後、国策として開拓が進められた北海道。空知の「石炭」、室蘭の「鉄鋼」、小樽の「港湾」とこれらをつなぐ「鉄道」を舞台に繰り広げられた北の産業革命「炭鉄港(たんてつこう)」は、北海道の発展に大きく貢献してきました。北海道で最初の鉄路が敷かれ、日本初の外洋防波堤が造られた小樽は、まさに北海道の物流拠点となったのです。

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旧手宮鉄道施設

明治時代(1880年代)、石炭輸送のために建設された、国内最古の機関車庫や転車台などの施設群。日本の近代化を支えた北海道の石炭は、ここから全国に運ばれて行きました。
●小樽市総合博物館 手宮1-3-6

旧手宮鉄道施設の機関車庫と転車台

小樽市総合博物館の鉄道車両群

炭鉄港ロゴ

小樽市総合博物館所蔵 鉄道車両群

明治17(1884)年製造の「しづか」号をはじめ、北海道で活躍した鉄道車両を保存。ラッセル車から除雪兼用ディーゼル機関車まで実物車両を見ることができるのは全国でも貴重です。

旧手宮線散策路

明治13(1880)年に部分開業した北海道で最初の鉄路・幌内鉄道の一部が、軌道を残したまま整備され現在は散策路に。イベントスペースや憩いの場として人々が行き交っています。

旧手宮線散策路の線路跡

小樽港北防波堤

「港湾工学の父」廣井勇の設計・施工指導により、11年の歳月をかけ明治41年に完成しました。傾斜ブロック工法を採用した日本初の外洋防波堤で、完成から110年以上経過した今も現役で機能しています。

小樽港北防波堤の外観

あんかけ焼そば

炭鉄港ロゴ

あんかけ焼そば

昭和30年代に小樽市内で普及。固めのあんとボリュームたっぷりの具材で、冷めにくく腹持ちが良いため、寒い港町で働く人々に好まれました。文化庁の「100年フード」にも認定された小樽のソウルフードです。

装飾

経済の血液・金融が生んだ
北日本随一の商都

色内銀行街の俯瞰景観

25もの銀行が活躍。一流建築家たちが手掛けた銀行街

明治末期、北海道の資源活用や人口増加のために人と物資の集積拠点となった小樽には、大手銀行や商社の支店が次々と進出し、金融の力で小樽は北日本随一の経済都市になりました。ビジネス街区の中心であった色内地区には、明治から大正、さらには昭和中期までの建造物、特に銀行建築が建ち並ぶ景観は圧巻です。半径500mの狭い地域にこれほど密集して残る地区は日本では他に見当たらず、北海道だけではなく、日本の近代化を象徴する地区と言えます。

日本銀行旧小樽支店

日本銀行旧小樽支店

日本銀行旧小樽支店 金融資料館

明治45(1912)年竣工。辰野金吾らの設計で、当時の最先端技術を集結させた建造物です。正面には 4つのドーム、海側には小樽港を眺望する望楼が設けられています。現在は金融資料館として公開されています。 ●色内 1-11-16


1. 1億円を持ち上げてみよう!

2. 北側の正面に配置された4つのドーム

3. 建物内では日本銀行のあゆみ等を紹介

4. 側面の南東角には南を眺望する展楼を配置

辰野金吾

工部大学校(現在の東京大学工学部)1期生。日本銀行本店や東京駅丸ノ内本屋(どちらも国指定重要文化財)も設計し、日本の近代建築の礎を築いたといわれています。

辰野金吾

旧三井銀行小樽支店

小樽芸術村

昭和2(1927)年竣工。戦前の日本における最大の建築事務所と称された曾禰中條建築事務所が手掛けました。当時、最先端の耐震構造を用いた銀行建築で、重厚なルネサンス様式の外観、吹き抜けや回廊、美しい石膏天井が特徴で、壮麗な空間を鑑賞できます。 ●色内1-3-10

小樽芸術村

旧北海道拓殖銀行小樽支店

小樽芸術村似鳥美術館

小樽経済の絶頂期、大正12(1923)年竣工の鉄筋コンクリート造建築。小樽の繁栄を象徴する銀行建築の一つ。特に、銀行ホールだった吹き抜け空間と6本の古典的円柱は圧巻です。現在は、重厚な雰囲気の中で美術品を鑑賞できます。 ●色内1-3-1

小樽芸術村似鳥美術館

装飾

一歩踏み入れるとタイムスリップ
明治の栄華を感じて

一歩踏み入れるとタイムスリップ明治の栄華を感じて

北運河エリアに佇む旧日本郵船株式会社小樽支店は、小樽が北日本随一の商都であった明治時代の栄華を今に伝えます。
堅牢な石造りの外観と、金唐革紙に代表される古典主義様式を取り入れた重厚な内装は、かつて国際航路を担い小樽経済を支えた海運会社の威信を感じさせます。国際貿易都市としての活気と華やかさが目に浮かび、当時の圧倒的な富を肌で感じることのできる空間です。
船入澗があった正面は当時を彷彿とさせる公園に整備され、市民や観光客の憩いの場となっています。

旧日本郵船株式会社小樽支店

明治39(1906)年竣工。工部大学校1期生である佐立七次郎の設計で、近世ヨーロッパ復興様式を採用した、日本の近代建築を代表する一つ。館内では貸衣装体験ができます。 ●色内3-7-8

金唐革紙

内装に使用されている金唐革紙は、和紙に金属箔を貼り版木で立体模様を施した日本の伝統工芸壁紙。明治期に欧米へ輸出され、イギリスのバッキンガム宮殿でも使われるほど高く評価されました。

装飾

港の大混雑を解消せよ!
小樽運河誕生の理由

ふ頭か?運河か?

小樽隆盛期の明治時代、大量の荷物を積んだ船舶が増え続け、港は大混雑となりました。この問題を解決するため、「ふ頭(岸壁)案」と「運河案」の二つの計画が持ち上がりました。
当時の小樽の港湾荷役は、600隻のはしけと1300人の働き手に支えられていました。大規模な工事となる「ふ頭案」は、この社会構造を一変させてしまうため、廣井勇により「時期尚早」として退けられます。
そこで、艀の活用を前提とした「運河方式」が採用されます。海を埋立てて倉庫を連ね、その前面に水路を設けることで、艀は倉庫の目前まで荷物を運ぶことが可能となり、飛躍的に効率を高めたのです。
しかし昭和30年代半ば、石炭から石油へのエネルギー転換、苫小牧港の開港などにより、小樽港の取扱貨物は減少し、小樽運河は次第に使われなくなりました。


はしけ
とは?

「艀」は、自航能力を持たない小型船で、接岸できない大型船と陸(倉庫)との間を大量の貨物を乗せて運びました。最盛期の小樽では、約600隻もの艀が沖合の船と運河を行き交いました。

「荒廃した運河を埋立てて道路に」
行政の案に市民が反対し、立ち上がる。

十年にも及んだ小樽運河保存運動

昭和40年代、荒廃が進む運河を埋立てて道路にする都市計画により運河南側の工事が始まり、倉庫群が取り壊されていきます。その様を目の当たりにした市民が、小樽の象徴である運河を守るために声を上げ、小樽運河保存運動が始まりました。「地域に生きるとは何か」を胸に、運河を舞台にしたイベントの開催や、市民の半分を超える署名を集めるなど、運動は盛り上がりを見せます。十年にも及んだ運動の末、運河の半分を残して道路·散策路が整備され、現在の運河の姿となりました。

たみちから」とは?

小樽の社会基盤が整っていない時代、財をなした商人が私費を投じて治療院や孤児院などを開設し、市民が支え合って街を創ってきました。小樽運河保存運動も、この「民の力」が伝統として繋がっていたからといえるでしょう。

かつての物流拠点は、人々の交流拠点へ

四季折々、多様な表情で人々を惹きつける

全面埋立ての危機を乗り越え、保存運動によってその名が全国に広まった小樽運河。
今や、多くの観光客が訪れる、小樽のシンボルとなりました。
​かつての物流拠点は、時代を超えて人々の交流拠点へと生まれ変わったのです。
​四季折々、一日の移ろいの中で表情豊かに変化する景色は、訪れる人々を魅了し続け、​港湾施設としての役割を終えた運河は、穏やかにたたずみ、現在の姿に至るまでの物語を静かに伝えています。

運河クルーズ

小樽運河と港を巡る約40分間のクルーズ体験。乗船中にはガイドによる小樽の歴史やまちの概要についての案内を聞くことができます。視点を変えて水面から眺める小樽の景色は新鮮です。

旧北海製罐倉庫㈱第3倉庫

旧北海製罐倉庫㈱第3倉庫

運河とほぼ同時期の大正13(1924)年に完成。北運河の象徴的な建物として長く愛されてきましたが、築100年の年月を経て老朽化を理由に解体の危機に瀕します。市民から保存を求める声が上がり、官と民による議論を経て令和3(2021)年に市への無償譲渡が決まりました。小樽運河の原風景を守ることができたのです。
北海道開拓と小樽港の発展を象徴する産業遺産を舞台に、現代の「民の力」によりライトアップやマルシェ開催などの多様な利活用が進められており、北運河エリアの交流・活動拠点としての再生に期待されています。
●港町4-6

小樽雪あかりの路

平成11(1999)年から始まった市民による手づくりのイベント「小樽雪あかりの路」。数千個のスノーキャンドルが街を幻想的な光で包み、冬の北海道を代表する風物詩となっています。

小樽雪あかりの路

小樽雪あかりの路

装飾

再評価された商家建築
観光資源として新たな活用へ

明治・大正・昭和期の商家の建物が多く残り、当時の記憶を今に伝える堺町通り。
ニシンや物流の中心地として木骨石造の倉庫や旧銀行建築などが立ち並んでいました。
戦後に小樽経済が衰退すると、その役割を終え、まちは活気を失いましたが、運河保存運動により、歴史的建造物の価値を見直す機運が高まり、昭和58(1983)年の北一硝子三号館開店を契機に工芸品や菓子などを扱う店舗として再生・活用する動きが加速しました。
レトロな雰囲気を活かした商店街は、国内外から多くの観光客を呼び込む小樽観光のメインストリートとして蘇りました。

旧木村倉庫

北一硝子三号館

明治24(1891)年、鰊漁場の中継倉庫として建築されました。内部は二つの倉庫に分けられており、その廊下には港から引き込まれたトロッコのレールが今も残っています。167個の石油ランプが幻想的な北一ホールでは、喫茶メニューを楽しむことができます。 ●堺町7‐26

旧木村倉庫

北一硝子三号館

旧名取高三郎商店

大正硝子館

明治39(1906)年以降建築。角地に建ち、防火のための袖壁「うだつ」が設けられています。明治後期の小樽の代表的商家建築です。 ●色内1‐1‐8

旧名取高三郎商店

火事による類焼を防ぐために隣家との境に設けられた高い壁のこと。家の財力を示すものでもあり、「うだつが上がらない」の語源にもなっています。

「うだつ」ってなに?

大正硝子館

旧共成㈱

小樽オルゴール堂

大正4(1915)年建築。石造りの多い小樽では珍しい、褐色のレンガ造りの建築物です。アーチ状の窓のキーストーン(要石)やコーナーストーン(隅石)などが特徴です。 ●住吉町4‐1

旧共成㈱

小樽オルゴール堂

旧越中屋ホテル

UNWIND HOTEL & BAR 小樽

昭和6(1931)年建築。越中屋は、明治30年代以降の英国の旅行案内書にも載った旅館で、この建物は外国人利用客のための別館でした。歴史を感じる建物の情緒や建築的美観はそのままに、大胆なリノベーションにより独特な世界観を体感できる空間となりました。 ●色内1‐8‐25

旧木村倉庫

UNWIND HOTEL & BAR 小樽

三方を山に囲まれ自然豊かな港まち。

色内銀行街の俯瞰景観

奥沢水源地水道施設

大正3(1914)年に建設された近代水道施設。奥沢ダムの水を勝納川に放流するための階段式溢流路(いつりゅうろ)は、流れ落ちる水が「水すだれ」と呼ばれ、景観としても貴重なものです。
●天神2-19(期間限定で一般開放)

良質な水、北前船の米により酒造地として隆盛

小樽は海に面し、三方を山に囲まれた坂の町です。天狗山の伏流水を源泉とする良質な水と「北前船」による良質な酒米の安定的な供給により、勝納川沿いには大規模な酒造工場が集積しました。「炭鉄港」の舞台として発展した小樽には港湾労働者が多く流入し、酒の旺盛な需要が生まれたことも隆盛の背景にあります。
最盛期には市内に十数件の酒蔵が存在し、北海道を代表する酒造地として栄えました。
現在酒蔵として活用されている旧岡崎倉庫は当時の海産物や物資の集積を担った、小樽の近代物流のシンボルと言えます。

旧岡崎倉庫

田中酒造㈱亀甲蔵

明治38(1905)年(1号棟)と明治39(1906)年(2・3号棟)建築の、3棟の連続する倉庫です。基礎は、下部に煉瓦、その上に軟石を重ねています。 ●信香町2‐2

田中酒造㈱亀甲蔵

ご当地の酒

小樽には様々な醸造所があり、日本酒・ワイン・ビールと多様な酒が楽しめます。小樽の良質な水からおいしい酒が生まれているのです。

ご当地の酒

装飾

小樽の栄枯盛衰を眼下に望む
天狗山から思いを馳せて

TENGUUテラス&展望台

TENGUUテラス&展望台

天狗山山頂の5つの展望台からは、積丹半島や対岸の暑寒別連峰の山並みなどを一望。ウッドデッキ「TENGUU テラス」からは眼下に広がる小樽の街をゆっくり堪能できます。

小樽のまちを一望できる天狗山。変化に富んだ海岸線、百年の時を刻む防波堤などの港湾施設、運河沿いの倉庫群、そこから山腹を這うように連なるまちなみの様子などが眼前に広がります。小林多喜二が「北海道の『心臓』みたいな都会」と表現した小樽を、地形をとおして感じる場所です。

小樽天狗山ロープウエイ・スキー場

●最上2-16-15

小樽天狗山ロープウエイ・スキー場

故里の顔

北海道の『心臓』と呼ばれたまち・小樽
ー「民の力」で創られ蘇った北の商都ー

Prologue

江戸時代末期からニシン漁場として栄え、明治時代には北前船の往来が盛んになった小樽。その近代化は、鉄道と港の整備から始まりました。
日本政府は、北海道の豊富な資源、特に内陸の石炭を日本の近代化に不可欠なものとし、その積出港として小樽を選定。石炭を本州へ送り出す物流拠点となった小樽には、商売人や仕事を求める人々が全国から押し寄せ、まるでゴールドラッシュのような活気に包まれました。
小樽は「神戸、横浜に次ぐ商港」と称されるほど発展し、「時代のどんな波も素通りすることがない」と言われる、日本の近代化が凝縮したような都市へと成長を遂げたのです。


Main Story

物流の中心地となった小樽は、やがて金融のまちとして黄金時代を迎えます。最盛期には25もの銀行がひしめき合い、東京駅を設計した辰野金吾をはじめとする一流建築家たちが設計した壮麗な近代建築が色内銀行街を形成します。しかし、エネルギーが石炭から石油に代わると、小樽の勢いは衰退。荒れた運河は埋立てて道路にする計画が持ち上がります。その時、立ち上がったのが市民でした。10年にもわたる小樽運河保存運動は、「地域に生きるとは何か」というメッセージが若者たちの心に響き、全国的な話題に。この市民の「民の力」が、小樽の運命を大きく変えたのです。


Epilogue & Future

激しい論争の末、運河の全面保存はできませんでしたが、一部が散策路として整備されました。この運河と石造倉庫群を活かしたまちの再生は、「民の力」が生んだ大きな成果です。かつて全国から新天地を求めて人々が押し寄せた小樽では、私費により社会基盤を作ってきた歴史を持ちます。この「民の力」の伝統は、現在も「小樽雪あかりの路」などのイベントに受け継がれています。多くの市民やボランティアが参加し、歴史的遺産に新しい命を吹き込んでいるのです。古い建物を活かし、歴史を誇りに変えて観光都市として輝き続ける小樽には、今も「心臓」の鼓動を動かす人々の物語が息づいています。


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