ストーリー

【炭鉄港との出会い-石炭、鉄鋼、港湾、鉄道-】

 札幌から北東に向けて車で1時間、空知地方をドライブしていると、街並みの中に異彩を放つ、高さ44mの巨大な鉄塔が見えてきます。これは平成6年に閉山した住友赤平炭鉱の立杭櫓で、東京スカイツリーよりも深い地下650mから石炭を揚げていた操業当時の雰囲気を、そのままに残す圧倒的な存在感と機能美、そして元炭鉱マンのガイドが見学者を魅了します。
 空知の石炭を基軸に、室蘭の鉄鋼、小樽の港湾、これらを繋ぐ炭鉱鉄道によって繰り広げられた近代化の物語「炭鉄港」。世界遺産〈明治日本の産業革命遺産〉と同じ源流を持ちながら、開拓から製鉄までわずか30年という短期間で独自の発展を遂げた「北の産業革命」であり、その歴史をひも解くと、これまで気づかなかった北海道の新たな魅力が目の前に拡がります。

【北海道の開拓-炭鉄港のはじまり-】

 年間約800万人もの観光客が訪れる〈小樽〉。観光客に人気の高い「運河」や「古いまちなみ」を語るには「近代」のストーリーが欠かせません。
 北海道は、明治になって、資源開発と北方警備の観点から国策として開拓が進められました。そのため、国家財政が約2千万円/年のところ、5年で1千万円という開拓計画が立てられ、西洋の技術も積極的に導入されました。
 その象徴的な存在が、〈空知〉の炭鉱開発でした。ライマンの調査により、石炭が豊富に埋蔵していることがわかり、明治12年に幌内炭鉱(三笠市)が開鉱、明治15年にはその石炭を運ぶための小樽~幌内間(約90km、当時の日本最長)の鉄道が、クロフォードらによりわずか3年で完成しました。同時に労働力確保のため2つの集治監(監獄)が開かれ、一大国家プロジェクトとして、《炭鉄港》の物語はスタートしたのです。
 炭鉱と鉄道は、後に北海道炭礦鉄道会社(北炭)に払い下げられ、〈室蘭〉への鉄 道延伸が進められたことで、室蘭は石炭積出港として取扱量が急激に増え、北海道三番目の特別輸出港に指定されました。その後、鉄道は再国有化され、北炭は売却資金をもとに、空知の石炭を使った鉄鋼業に進出、室蘭は鉄のまちへと変貌していきます。

【富国強兵と領土拡大-炭鉄港の発展-】

 〈小樽〉は、明治30年代には、我が国初の本格的港湾として北防波堤の整備が進むなど、北海道隋一の港町となっていましたが、第1次世界大戦での世界的な農産物の高騰を背景に、北海道産品の輸出港として更なる発展を遂げました。小樽から道内各地へ鉄道網が 伸びたことから、産品を容易に入手できたためです。
 また、第1次世界大戦は、〈空知〉の炭鉱にも大きな変化をもたらしました。採掘現場が次第に深くなり生産量も拡大する中、欧州製機器の輸入が困難となったため、国産技術による電化や機械化が進んだのです。立杭が続々と掘削され、新鉱開発が活発化するなど、技術革新の時代を迎えました。
 〈室蘭〉の製鉄は、生産・経営とも初めは順調に行きませんでしたが、昭和9年の日本製鉄への合併を機に一転、大増産体制へと向かいました。

【戦後復興とエネルギー革命-炭鉄港の活躍と衰退-】

 第2次世界大戦後、昭和40年代からいち早く衰退の兆しが現れたのも〈小樽〉でした。輸入原材料の調達に不利な日本海側にあったため、太平洋側にある苫小牧港との競争に破れ、商業・金融機能も次々と札幌へと移転していきました。
 一方、〈空知〉〈室蘭〉は、戦後復興のため炭鉱と鉄鋼業に優先して資源が投入され大活躍しました。戦争被害が比較的軽微で、豊富な石炭を持つ北海道が戦後日本の再出発に不可欠だったのです。しかし、昭和30年代後半には状況が一変、エネルギー革命により石油が急激に普及し石炭に取って代わります。
 〈空知〉では、「スクラップ=ビルド政策」に沿った大規模投資により操業を効率化、生産コストを削減し、生き残りへの最後の懸命な努力が重ねられます。しかし、大勢に抗うことはできず多くの炭鉱が閉山。史上最大の産業転換政策である「石炭政策」によって、5万人の労働者が空知を去りました。
 〈室蘭〉も、小樽と同様に苫小牧港に物流機能が移るとともに、国内臨海部の新鋭製鉄所の出現により次第に地位を低下させます。日本が高度成長へとまい進する中で、《炭鉄港》は国策による使命を完全に終えたのです。

【未来に向けた「知の旅」-炭鉄港のこれから-】

 その後、地域が歴史を見つめ直し、新たな価値を見出すまちづくりが、再び〈小樽〉から始まりました。歴史遺産を生かした「歴史とロマンの街 小樽」として、多くの観光客が訪れています。また、〈 空知 〉や〈室蘭〉でも地域の歴史や産業遺産を生かしたまちづくりが進んでいます。
 さらに《炭鉄港》は、世界遺産〈明治日本の産業革命遺産〉の出発点である薩摩を源流とする点でもユニークです。薩摩藩主・島津斉彬は、日本初の西洋式工場群「集成館事業」を推進し西欧からの脅威に対抗しましたが、ロシアによる北方の脅威にも危機感を抱き、軍事力に加え産業が必要と考え、その思いが家臣団により引き継がれます。そのため北海道開拓では多くの薩摩出身者が要職を占め、ビール醸造(現・サッポロビール)や屯田兵、米国技術者招聘など、新たな技術・制度が積極的に導入されました。
 《炭鉄港》エリアには、当時を物語る多くの産業遺産が残されているほか、「なんこ」や「室蘭やきとり」をはじめとした独特の食文化が生まれ、今なお地元の方々に愛されています。
 成長と衰退、そして新たなまちづくりに向かうという《炭鉄港》のドラマチックな変化を実感することは、日本が直面する人口減少・少子高齢化の先取りとして、未来に向けたヒントと新たな価値観に出会うことができる、「知の旅」なのです。